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正式名称は全日本空輸株式会社。
日本を代表する航空会社のひとつで、全日空のルーツは1952年に設立され東日本を基盤に航空業を営んでいた「日本ヘリコプター輸送(通称:日ペリ)」でした。
この日ペリと西日本を基盤にしていた「極東航空」が1957年に合併をし「全日空」が誕生。これにより路線網は全国規模となりました。
今現在、同社が国内線シェアにしめる割合が高いのはここからきているのかもしれません。
現在では国際線を数多く運行している同社も戦後国際線は「日本航空」のみと言うような政府の方針から日本航空以外は国際線を運行することができなかったため、
1986年までは(チャーター便は除く)国内線のみでした。
それが1985年に「45・47体制」が廃止され念願の国際線進出へとなったのでした。
ちなみにグァム-成田線が同社初の国際路線。
昨今の特別塗装機ブーム(?)なるものを生み出したのは同社の「マリンジャンボ」が登場してからではないでしょうか。
「マリンジャンボ」に続き「スヌーピー」、1998年・1999年は「ポケモンジェット」と毎年のようになにかしら楽しませさてくれます。
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北海道の離島路線(函館〜奥尻・稚内〜利尻・礼文)をうけもつ会社で、もともとは日本近距離航空(現エアーニッポン)が運行していましたが、
地元密着型と路線維持のため北海道とエアーニッポンが共同出資してできた会社です。
稚内〜利尻・礼文線は機材大型化により運行がエアーニッポンとなり、函館〜奥尻線のみの運航となっていました。
機材はDHC-6が2機で、稚内〜利尻・礼文線がエアーニッポンに移管された為1機売却、後年1機で函館〜奥尻線を運用していました。
残念ながらエアー北海道は機体の整備やその他の事情により2006年に会社自体清算され、
奥尻線は北海道も出資しているJAL系列の北海道エアシステムが引き継ぐこととなりSAAB340にて運行されています。
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もとは日本近距離航空でDHC-6により丘珠〜稚内・利尻、函館〜奥尻、新潟〜佐渡など、主に北海道内路線を中心に運行していましたが、その後経営が悪化。
全日空が筆頭株主となりの経営再建へ。それからは全日空が運行していた小中型機使用路線が移管されたり、
新たな路線を開設するなどでローカルエアラインから全国規模のエアラインへと成長を遂げました。
路線も全国規模となり、それに伴い社名がそぐわないということで1987年に「日本近距離航空」から「エアーニッポン」に変更されました。
機材は設立当初はDHC-6のみでしたが、YS-11、初のジェット機として導入されたB737-200、
現在の主力機であるB737-500、そして全日空との共通事業機としてA320があります。
DHC-6はエアー北海道に移籍、YS-11は2003年に丘珠〜函館線を最後に全機引退、B737-200はB737-500に後を譲る形でこちらも全機引退しています。
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エアーニッポン全額出資の子会社で、エアーニッポンが運行していたYS路線を引き継ぐ形で2001年4月に設立された会社です。
主に丘珠空港発着の北海道内路線を運行しており、他には羽田〜大島間、伊丹〜高知間の路線も運行しています。
北海道内路線が主とあり、本社も東京ではなく北海道は札幌に置かれています。
使用機材はDHC-8のみ。DHC-8-300×5機が道内路線と羽田〜大島路線に、DHC-8-400が伊丹〜高知路線に使用されています。
-300は一機づつ塗装が異なっていて、機体後部に花が描かれていてそれぞれに愛称がつけられています。
「つばき」「ひまわり」「すずらん」「こすもす」「はまなす」があり、「つばき」は羽田〜大島線に、それ以外の300は北海道内路線に使用されています。
2010年にエアーセントラル・エアーネクストと合併しANAウイングスに商号変更。
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使用機材 |
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航空規制緩和により1998年末に北海道から新千歳-羽田間の路線に参入した航空会社。
利用しやすい運賃を設定し気軽に乗れることというようなことをかがげて参入しましたが、
就航当初羽田空港の便数配分が要望していた6往復ではなく半分の3往復と利用するには不便な便数であったことや、
大手三社(当時がAIRDDOみの割引運賃を設定するなどで苦戦。2000年7月には待望の2号機を導入。同時に羽田-千歳間が念願の6往復運行になりました。
が、経営状態は改善されずに2002年についに民事再生法を申請することに。
現在は全日空と業務提携により経営再建中で、その中でも明るい話題としては新千歳-羽田間のみであった路線が
2003年7月より全日空の路線を引き継ぐ形で旭川-羽田間にも就航したことでしょうか。
これにより機材不足になるために全日空で使用していたB767-200をリース導入しています。
その後、羽田-函館線を開設。B767-300を使用しANAとの共同運行で運行。
更に2006年には羽田-女満別線を函館線同様ANAとの共同運行で開設されました。
ANAよりリースで導入していたB767-200の返却に伴い、新たにANAがリースでB737-400を導入。」
B767-200で運行していた旭川線に投入され、機体前部には「ゆきのにおい あさひかわ」のロゴも入れられています。
その後B737-400返却にともない代わりにB737-500を-400同様ANAがのリースで導入。主にローカル路線に投入されています。
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1997年に日本エアシステムと北海道が共同出資して設立された会社で、
北海道が出資しているのをみて判るとおり北海道民の空の足として利用されるように作られたコミューターエアラインです。
路線は、設立当初新千歳をベースに函館・旭川・釧路を運行していましたが、2003年から念願の丘珠空港にも乗り入れを開始。
函館線の全便と釧路線の一部の便が新千歳か発着から丘珠発着へシフトしています。
機材は全機SAAB340Bで3機導入。親会社の日本エアシステム機同様、JAL塗装に順次変更されました。
エアー北海道が(ADK)2006年春に廃業したことから、それまでADKが運行していた函館〜奥尻線を引継ぎました。
系列外での路線引継も珍しく思いますが、北海道エアシステムは北海道が出資しているということも関係あったのでしょう。
2011年に筆頭株主であった日本航空が経営から撤退、筆頭株主が北海道ととなりJALグループが離脱しました。
とはいえ、マイレージがそのままつかえたり機体整備をJALに委託するなど現段階ではJALグループ離脱前とさほど変化がないようにみえます。
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日本エアシステムの前身である東亜国内航空(TDA)が誕生したのは1964年。「日本国内航空」と「東亜航空」が合併して誕生しました。
その後1988年に国際線進出を機に「東亜国内航空」から「日本エアシステム」に商号変更しています。
45・47体制もあり主に国内ローカル線主体の路線となっていて、機材もYS-11やDC-9等小型機が主でした。
国内の事業者としては珍しくボーイング機比率が低くB727-100引退後はB777-200導入までボーイング機がいなく、
エアバス機、マクドネルダグラス機が大多数を占めていました。
日本で大型旅客機としては初めてのアドカラー機(大塚製薬・ポカリスエット)を飛ばした事業者でもあり、
スカイマークエアラインズが就航時機体広告を導入していたのでさほど珍しくもなくなりましたが、当時としては驚きでした。
またMD-90導入時には映画監督であった黒沢氏デザインの黒沢塗装(7つのデザインが!)、
更に一般公募で選ばれたB777-200のレインボー塗装等非常にカラフルな機種専用カラーが施されていました。
日本エアシステムは2001年に日本航空と経営統合の道を選択。
名称が日本航空ジャパンとかわり、JASの名称は無くなりすべてJALに。。。
機体の塗装もJAL塗装に順次塗り替えられ、残念なことにJASの標準塗装はもちろんのこと
レインボーカラーのB777や黒沢デザインのMD-90もJAL塗装に統一され過去のものとなってしまいました。
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日本エアシステム100%出資の会社で1997年に設立されました。
福岡をベースにDC-10で国際チャーター便を、MD-81で日本エアシステム便でのウエットリース運行を担当していましたが、
DC-10の除籍後は国際チャーター便は休止し、JAS便のウエットリース運行のみになりました。
2005年に親会社であるJASがJALとの経営統合により日本航空ジャパンとなってからは、
JAL便のウェットリース運行にあたっていましたがそれも一年程で、その後は航空輸送業務からは撤退し乗務員の派遣業務のみをおこなっていました。
2008年にはその派遣業務も撤退し会社そのものも清算されてしまいました。
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台湾
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ロシア
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アメリカ
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中国
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